「幸福と恐怖と時間 2」諸根陽介

第1部の終わり、雪崩で亡くなった後輩の話をしてくれた諸根さん。そのお葬式、後輩のお父さまのご挨拶を思い出し、諸根さんはしばし絶句 ―― 「時間は2度と元に戻らない。それが全ての悲しみの根っこにある」と呟きました。インタビュー後半は悲しみの根源やドラマ性、感情、そして……もう一つのLOST体験が語られます。

インタビュー前編:「幸福と恐怖と時間 1」諸根陽介

プロフィール

諸根陽介(Morone Yosuke)
会社員をしながら、原稿を書いたり音楽を作ったりすることを細々と続けている。批評誌「アラザル同人。音楽活動は田中淳一郎とのデュオ“UFO工房”や、小林このみ(ピアノ)住本尚子(映像)との“小林このみトリオ”など。CDとレコードに埋もれつつある家で、妻と二人の子供と暮らしている。人間以外のなにかになるとしたら、「悩む……鳥か鯨か木」。

Twitter:@Dj_Ojiisan

声のイントロ

 

今回、諸根さんが、
「LOST」というテーマに感じたという、
3つのインスピレーションと、
3名の中心人物。

その一人、
雪山で亡くなった山岳部の後輩を、
いま、諸根さんは、
どのように思い出すのでしょう。

会えない/会わない

諸根君は、人が亡くなったことをエピソード的には受け止めない? なんかこう……起承転結や脈絡を作って、短編小説みたいな感じで頭のなかに入れておく、みたいなこと。

しないね。

神仏みたいな存在を念頭に置いたり、「あの人とあの場面で繋がって、だからその後があって……いまの自分があって……」みたいな因果関係に落とし込んだりとか、そういう心の整理、出来事の整え方も、やらない?

やらないですね。

でも、「なんで亡くなってしまったのか……」とは考える?

なんでっていうか、別に、うん、うん…………。理由を考えても、しょうがないんだけど、なんだろう、そのこと自体に別に意味を持たせたりとか、それによってなんか自分が変わったとかっていうことが、そういう意味の持たせ方はできない。

その、ただやっぱりその、……うん……生きてた時の事を思い出すじゃない? この時間がもう戻ってこないし、なんだろう……いつか会えるんだったら、何も問題はないんだ。もう会えない。一緒に過ごした時間はあったけど、その不思議さっていうか…………そうだなあ、別に、なんだろう、亡くなった後輩に対して、自分がなんかできたとは全く思わないし、……。

……。……。

そうだなあ………………

………ふとした時、思い出すよね。

まあ……思い出してしまうんだよな、どうしたって、折に触れて思い出すよね、そういうことは。ここ何年か墓参りに行ってないから、また行かなきゃなって気持ちになってきた。子供が生まれてから行ってないかもしれない。

……亡くなった人とは、今後、一緒に何かやったり、互いに影響しあって変化したり……って、二度と、ならない。

一緒にいた時間があったわけで。そういう時間、もう二度と訪れることはないんだよね。

完全に失われたっていう事が、「LOST」っていうことで言うと、もしもこれが「時間が戻ってくる」んであれば、どっかでやり直せる。それが、やっぱりできないっていうことが、だから悲しいんだなって。悲しみの根源で、なんか、そういうことだなって思うんだよな。お金落として悲しい、物が壊れちゃって悲しい、何でもそうなんだけど、悲しいというのは時間が戻ってこない。その根っこにある……だなあ。

それ、「時間が過ぎることって悲しいなぁ」にはならない?

時間が過ぎることも悲しいんだよね。もちろんその、時間が過ぎるっていう、要するにそれはイコールなんだよね、時間が過ぎていって、その時間は二度と帰ってこない。なんか非常に陳腐なこと言ってる気がするんだが(笑)

いやぁ……日々、都度都度……それを自覚しながら暮らすっていうのは…………

同じ時間が2回やってこない。として、行ってしまって戻ってこないっていうことが、それを言ったら、「人生1日1日が悲しくてしょうがない」みたいな状態になるんだけど(笑)

不可避だよね。

年をとるにつれてそういうモードが強くなってるとは思う。やっぱり、祖母が亡くなった時くらいから、そういう気持ちはあったにはあったんですよ。母方のおばあちゃんが亡くなったのは結構早かったんだよな、いつだったかな。あー……でも、あれだ、山岳部の女の子亡くした方が先だ。

もう会えないっていうことの不思議さと言うか、もう帰ってこないんだよなぁっていう、ずっと引きずってるっていうか……そういう思いがどんどんどんどん強くなってきて、別に何て言うの? なんかこう、楽しいことと悲しいことが表と裏でくっついてるんだよ。楽しければ楽しいほど、それはもう二度とやってこない時間だっていう悲しさが裏に張り付いてる。

子供が生まれてからその傾向はますます強くなった。子供の、小さい頃からずっと可愛いし、めちゃめちゃ可愛いんだけど、とにかくどんどん大きくなっていてしまって、そんなに慌てて大きくならなくていいのに! お前は何でそんなに早くに大きくなってしまうんだ! 

すげー毎日楽しいし、めちゃめちゃ可愛い、そのぶん一緒に過ごす時間が、「じゃあまた2年前に戻ってやり直す」とか「あの時間、楽しい時間が、また過ごせるぞ」っていうことは、絶対ない。そういう事実と、裏表がくっついていて、毎日楽しいんだけど毎日悲しい。そういう状況が常にある。

こういう気持ちは子供が生まれて、ますます強くなってきました。なんかその……だから、結局失っているのは時間なんだなっていうことなんだけど。

子供の成長を間近にするっていうのは、過ぎていく時間を目で見てるような気分?

目で見ているっていうか……例えばここで、こうして話してる時間も、二度とないよなぁ……っていうか。楽しいと同時にすげー悲しい。楽しいことがあった後に、ふと我に返ること、あるじゃない。たぶん誰にでもあると思うんだけどな。

こちら、おさげいたします。
ありがとうございます。

相手が生きていれば、「こうして過ごす時間は元に戻らないけど、また楽しい事もあるかもしれない」と思える。でも、亡くなった人とは、次の機会がない。そのやりきれなさが、故人が自分の傍に存在してくれた意味とか、関わりあって過ごせた機会の価値とか、なにかこう……なんらかのフィクションを立ち上げて、大切な人の永遠の不在を受け止める心の働きが、あるような気がするんだけど。

「人が亡くなって、私の●●が変わりました」とか、「自分の人生にこんな影響がありました」みたいな、そういう、しょうもないことを言ってもしょうがないというか、それは何ていうか、そういう軽薄なことはあまり言いたくない。

「あの人が亡くなって自分は変化した」とか、「喪失体験から、こんなものを受け取ったんです」みたいには解釈したくない?

誰かが亡くなったっていう事実を、そういう風に処理したくない。このこと自体に何か意味がありましたみたいなことを言えないし、言いたくない。そういうことを、いや、そういう風に乗り越える人もいるとは思う。

そのことに……「すべての悲しみには理由があるんです」みたいな。「それは私を成長させてくれるんです」みたいな、しょうもないうんこみたいなことを言う人もいるとは思う。俺は自分がそれによって変化したとか思いたくない。意味づけはしたくないな。ただ、人が死んでしまった、という事実だけだ。

 

ドラマに対する不信感

ストーリーに落とし込まない、っていうことなのかな。

あーそうですね。

それは、人の死に関してだけ? それとも、人との関係や仕事の巡り合わせ、人生に起きる様々な出来事はストーリーに落とし込まない?

自分の人生にストーリーを当てはめないし、そもそもそういう……何かそこに、理由とか意味を、あまり見出そうとしない傾向が強いですよね。自分で言うのもなんだけど(笑) 

それはそうだと思うし、そもそもいわゆる、いわゆる……ストーリーとかドラマというものに対する不信感がある。だからその、何かを失くした体験ということが、自分の人生にこういう意味がありましたみたいなことを安易に言いたくないし、基本的にはそんなものはないと思ってる。

ただまあ……じゃあ、「何がオマエを作った?」「なぜお前はそうなったのか?」っていうことに対する答え、全くなくなっちゃうんだよね。

物語も宗教も、脈絡もないと……

だからその……俺はアナーキストなのかもしれないし、そう言われたこともある。みんなそういうものを心の拠り所にしたがるじゃん? でも、そういうのは本当に無いかもしんないなあ……。そういうふうに思えないんだよなやっぱり。

別に…………山岳部の彼女の存在とか、男の後輩もそうだし、会えなくなっちゃった友達もそう、彼らの人生……俺のためにあるわけじゃない。

…………。

なんか自分の人生のパーツみたいに扱いたくないんだよね………。筋書き、筋書きが書かれている、そういう脚色をしたくないなー。自分に対してもしたくないし、周りにいる人たちに対してもしたくない。本当になんか、アナーキーなのかもしんないけど、……でも、「本当はそうじゃないの?」って思ってる節がある。

ただ、こういう俺の話って、面白くないと思うんだよね(笑)

いや、共感するところと、触発されることがあるし、面白くないとは全く感じないよ。

何て言うか、面白味はないよね、面白おかしくストーリーに仕立てて、物事を語ったりとかっていうことに対する興味があまりない。そう考えると、自分がアラザルで書いてるものにものすごく通じるな。

どんなところ?

あんまりその、個々の事象に意味を持たせようとしないと言うか、意味はないっていうか、意味はなくていいと思ってる節がある。意味なんてなくったって、そこにあるんだからいいじゃん。っていう風に思ってるのかもしれない。まぁそんなこと言ってると何も評価できなくなるし、実際そうなりつつあるんだけど。

それって人間の心の状態としてどういうことなのかよく分からないんだけどね。自分で言ってて(笑)。意味を求めていく気持ちも分かるんだけど。

 

我が子が愛しいと微笑んだり、
後輩のお葬式で嗚咽したり、
情にあつい諸根さん。

一方で、
人との関わりや喪失体験について、
「脚色をしたくない」と断言します。

その話しぶりには、
いわゆる家族愛や友情、
浪花節のような、
出来合いのストーリーに与さない、
毅然とした響きがあります。

そんな諸根さんですが、
目標や課題に対しても、
同じような感覚なのでしょうか?

学生時代の過ごし方は?

 

学生時代の諸根さん

何かに打ち込んだり、継続が必要だったりする場合、将来の希望やイメージ、達成した場面から逆算して、計画を立てる方法があると思うんだけど、諸根君はやらないですか?

どうなんだろうねー

高校受験、大学受験、その時のモチベーションって覚えてます?

それは単純に面白かったんじゃないかな。あのー、何かを知ったり考えたりっていうこと自体の面白さ、たぶん、ベースだったんじゃないかな。

うーん……競争的な観点がなかったわけではないと思うんですよ。「勉強できるようになりたい」とか、「いい高校、いい大学に入りたい」とか、「その中でも順位が上になれたら嬉しいな」とかっていう気持ちは、なかったわけじゃないと思う。

とはいえ、難関校の受験に向けて、むちゃくちゃ勉強したはずなのに、基本的に面白かったからやってただけなのか……

どちらかと言うと………難しいけどね……面白いなって思った事の方が根っこにある気がするなあ。数学の問題とか考えて解けた時、おもしれーなーとかっていう気持ちの方が多かったんじゃないかなー。

………でもまあ、そういう明確なゴールとか目的をイメージしてない人生だったから、ここでこうなってるんだろうなっていう気持ちもあるけどな(笑)

割とそのそういうのが希薄なんだよな、俺の人生って。目的とか、ゴールとかっていうのをどこか懐疑的に見てるっていうか、そう考えると「俺大丈夫か?」っていう風にもなるんだけど(笑) それはそうなるかもしれない………。

諸根君、自分の感覚に似てると思う人、会ったことあります?

どうなんだろう、結果よりもプロセスを面白がってるやつって意味では、高校生くらいの時は回りに結構いた気がするなあ。ただ純粋に勉強するのが面白いって人間。公立高校だったから色んな奴いたけど、まあそれはいいところだったなと思うんだけど、単純に競争してるっていう感じで勉強してる人はあんまり居なかったなあ。勉強すること自体面白いって、みんな思ってたんじゃないかな、あの頃は。

さっきの、身の回りの出来事をドラマ化するかどうかの話しなんだけど、人によっては「喪失」をエピソード的に回想したり、受け止めると思うんだよね。諸根君は、後輩が亡くなって、衝撃を受けても、ストーリーで片付けてない。

例えば失恋を経験して、「私はこう変わりました。その結果、今、こうなりました」みたいなことを、実際そう思ってる人たちは、たくさんいるんだろうなと思うよ。何か理由付けをしようと思えば、できる、俺にしても自分の人生がこうなっていたことを、理由付けをしようと思えばできるんだと思う。ある程度わかりやすく伝えなきゃいけない場面だったら、自分もそう言ったかもしれない。

でも、諸根君は後輩を亡くした体験を、ストーリーに置き換えない。

そうだなあ………何事につけそうかもしれない。それはすごく難しいよね、こういう話は。自分が一番そういうことを感じるのは、例えばこの「LOST」っていうテーマで、3つあるって話したじゃん。後輩が亡くなったっていうのと、友達と会えなくなったっていうのと、かみさんが死にそうになったってことと。実はもう一個「LOST」があって、それは俺が大学をドロップアウトした時なんですよ。

ドロップアウト?

……そこそこ良い大学の、理系の学部で研究室に入って、研究していて、そのまま行けばたぶん大学院に行って、製薬会社とかに入ってたと思うんだけど、研究室に馴染めなくって、大学を卒業するタイミングで飛び出してしまい、就職活動何もしないまま、別の大学院に行こうとしたけどそれも失敗して、まあ3年くらいフラフラした挙句、うちの会社に拾ってもらって、今に至るっていう経歴なんだけど。

今、わかりやすくするために、馴染まないストーリー的なまとめをしてくれたと思うんだけど……(笑)その数年間、むちゃくちゃ色んな事があったと思うんだよ。言葉にしちゃうと、一息、二息だけど。

あのー、……。……なんて言うんだろう、ここだけ書くとすごい酷い話だし、今でも心のどこかで「酷いな」って思ってる節はあるし、えぇと……それはたぶんこの、自分の人生の「LOST」という観点では、そこそこ大きな出来事と言うか、当時はね、本当に何も考えてなかったと思うんだけど、……

何も考えてなかったというのは、大学院に進む進まないとか、将来について?

そうそう。無職でふらふらするということ自体が、「二十代半ばにもなって、お前何やってるんだ?」っていうことが、どうやって自分がそれを受け入れていたのかがよく分からない。でも当時は本当に就職氷河期で、周りに意外とそういう人たちがいたから……

同じ時期に、おれも大学生だったから、すごくよくわかる。あの頃って、就職を希望する学生の多くが就職できなかったんじゃなかったっけ……

それでなんとなく自分もそういう状況になったの、自分で自分に甘えると言うか、受け入れられてたんだろうなっていう気はするんだけれども、あのー……そのこと自体に、意味なんて見いだせないっていう。

見出せないことに対する苛立ちみたいなものを、たぶん昔は、多少あったと思うんだけど、結果としてそういう人生を歩んだおかげで、かみさんに会ってって子供が生まれてってことが自分にとってすごく大きくて。

でもたぶんその、こういう人生を歩んでなかったらかみさんにも会ってないし子供も生まれてないから、その……かみさんに会って結婚できた時に、「俺の人生はこれで良かったんだなー」って思ったんだけど、思ったんだけど……そういう…………意味の持たせ方ってこと自体にも、その、果たして、そういう納得のさせ方はどうなんだろうなーっていう気持ちもある。

それはストーリー的な受け止め方だもんなあ。

そういう気持ち……かみさんと会って、結婚して。子供が生まれて。やっと自分の人生を受け入れられるようになったなっていう気持ち、半分ある。でもその一方で、そう片付けていいのかな、っていう風には思っていて。

んなこと考えたってしょうがないし、「じゃあかみさんに出会わなかった方が良かったのか?」って、「子供が生まれなきゃよかったのか?」って、全くそんなこと思わないんだけど、あのー……そうやって納得させてるのもなんか違うっていうか、違わないんだけど……それはそれで、俺自身の心の動きとしては、全然問題ないんだけれども、その、なんて言うんだろ。それを、そういう心の動きをする自分を客観視する自分もいる。っていう感じかな。

人生の出来事をドラマ的に受け止める場合もあるし、同時に、そういう整理の仕方に疑問や不信も感じてるんだ。

主観的な心の動きも、それを客観視する自分も、両方あって全然オッケーだし、それは何て言うか、自分が音楽について文章を書くときにも全く同じようなこと書いていて、「あのー……そもそも、音楽って何なんでしたっけ?」っていうことを割と考える。「音と音楽の違いって何なのかな?」「なんでみんな、音楽っていうものがあることを前提にして、語ってるのかがよく分からない」っていう。でもその一方で、俺、音楽めちゃくちゃ好きだから(笑)

音楽がめちゃめちゃ好きだっていうことは受け入れて、それは別にそのこと自身はいいんだけど、それと一歩離れて、外から見た時に、「お前が音楽として受け入れているそれって一体何なのか」、「それが音楽として自分の人生に何か意味がありましたっけ?」みたいなことを語っている状況って、あまりにもその……「何かを前提として、盲目的に受け入れすぎているんじゃないの」、みたいなことを同時に考えてしまう。っていう節があるのと、今の話は割と近いとこにあるかもしれない。どこかで自分を客観視してしまうと言うか。

さっきの話でもそれで、動物が可愛いと思うのは全然オッケーなんだけど、なんでそんな気分になるのかっていうのは同時に考えちゃう。っていうのと同じような話?(笑)

ラストオーダーの時間ですけど注文ございますか?
あー、いや大丈夫です。
ぼくも。


家族を大切に思い、
仕事や同僚と実直に向き合い、
音楽を楽しむ諸根さん。

「好きだ。大切だ」という思いは、
言葉の隅々に溢れています。

しかし、心の中に、
「好き」という気持ちがあったとしても、
一方で「それにかまけていていいのか?」という疑いがあり、
「好き」及び「嫌い」を簡単に判断の基準にしないという、
矜持を秘めているようにも感じます。

そんな諸根さんの批評には、
常々、ある特徴を感じていて ――

 

諸根陽介の批評

諸根君の批評は、批評家たちが編み出し、継承してたスタイルに簡単に頼らず、人生観・現実感とつながっているところで書こうとしてるように読めるんです。これって、やるとなると難しいというか……読んだり、聞いたりしてきたものを下敷きに始めがちじゃないかな、というか……

それは自分の弱点でもあると思ってて。

弱点?

なんていうんだろなー……本当に、今、黒川君が言ってくれたことはすごく嬉しいし、あのー……本当に自分からしか始められない、自分が考えたことからしか、始められないのは本当にその通りで、自分が考えたこととか……そこに立脚してるのは、確か。

一方で、学がないから広がりがない、っていう弱点も当然あるんだけど。あとはあまりに客観的すぎて、……個々の事象に意味を持たせなさすぎる。……。もっと個々の事象に意味を持たせたり、掘り下げるっていう方が、本来、批評っていうものの役割って、そっちだったんじゃないかな? 

詳しく教えてほしい。

例えば「AとBの微細な差異」にこだわる、とかさ。批評って、そういう役割も持ったものだったはずなんだけど、あまりにも遠いところから客観的に見過ぎていて、個々の事象に対する意味づけとか差異とかを、まあ、そういうものがあることはもちろんわかっているんだけども、あとから眺めた時に、こうなんじゃないかなっていう抽象化をしすぎるな、それが自分の書き物の、後は今まで話してきたことの、ちょっと何て言うか……ドライに過ぎるというか。

アラザルの仲間で言うと、西田さん(西田博至)とか三上君(三上良太)とかが書いたものを読むと、個々の事象、個々の出来事に意味を持たせて、積み上げていって、一つ一つの対象と、いかに真剣に向き合うかっていうところが、まあほんとに批評的というか、それはすごく素晴らしいし。

自分が書くものがそうならないのは、そういう……その、対する意味づけが薄いっていうとこだったり、それは本当に自分が書くものが面白くない、批評的じゃないことの理由、……なんじゃないかな。自分がそういう風に書けないっていうのは仕方ないし、じゃあ自分がもう書かなきゃいいんじゃないか!って気もしなくもない(笑)

「Aはこういう映画で、Bはこんな小説で、Cという時代背景があって、だから総合すると……対比すると……」って進む批評があり、「よくAと言われる作品、本当にAなのかな?」と省みる文章があり、それぞれに役割があるんじゃないかな。

なんか自分が乱暴なことばっかり言ってる気がしてきたな……(笑)

諸根君は、逆張りしたいんじゃないんだよね。「この映画はAというテーマを表現していて、この小説はBという主題を語ってて……」と、ひとつひとつ定義しながら考える批評に対抗して、個々の事象を疑ったり、あえて客観でいようと意識してるわけじゃない。

そういう認識はない。

書いたり、考えたりした結果、自然とそうなる、ああなっている。

自分が考えてることを書くと、あーなっちゃう。ものすごくその、具象と抽象のバランスが悪くて、抽象に議論が寄っていっちゃう。個々の具体的な事象を掘り下げるとか、それを見つめるっていう方向に……、…………行こうとすれば、行けるのかもしれないけど、前提になってる枠組みとかを、もう1回捉え直したいっていう気持ちになってしまってるんだなあ……。

出来事をストーリー的に解釈するときも、あるにはあるんだよね。

意味にしちゃいそうになるときはあって、意味にしちゃいそうになる自分と、それを外側から眺める自分みたいな、まあ……自分の人生の紆余曲折を結果として何かに紐付けてそれに意味があったんだって思いたがる自分もいる。

かみさんと子供に会えたから自分の人生それで良かったなって、思いたがってる自分もいるし、仕事をしてても、まあ俺こんなだから、特に仕事の成果をあげなきゃいけないとかっていうことはどうでもいいと思っているんだけど、その一方で、こんな自分でも職場とか社会の中で自分の居場所があるなって、そう思ってる自分がいたりするわけ。

ストーリー的な流れを思い描いて「よかった」とオチをつける自分と、ドラマチックな流れを信じきれない……と思う自分と? 正反対……なほど……

一致しないよね。一致しないんだけど、共存はしてるんだよ。「音楽好きだな」っていう自分と、「そもそも音楽好きだっていう自分が聞いてる音楽って何なの?」っていう自分と。

「犬かわいいな、この虫かわいいな、大好きだな」って思ってる自分と、「何でお前そんなこと考えてんの」っていう自分と。「かみさんと子供に会えてよかったな、俺の人生これで良かったのかもしれないな」っていう自分と。

15年サラリーマンやってきて、「まあそれはそれで何でなんとかやってきたんだな、これでよかったのかもしれないな」って思いたがってる自分と。

でも、「お前、そんなこと言ってるけど……言ってるけど、人生に何か無理やり意味を持たせてるだけだよね。ただの偶然でしょ? それって……」みたいなことを考えてる自分が同時に存在していて、共存もしてるけど、一緒にはならない。

一緒になることはたぶんないだろうな。アウフヘーベン※されるみたいなことはないだろうなと思ってる(笑)

※アウフヘーベン:止揚。ヘーゲル弁証法の根本概念。あるものをそのものとしては否定するが、契機として保存し、より高い段階で生かすこと。矛盾する諸要素を、対立と闘争の過程を通じて発展的に統一すること。揚棄。アウフヘーベン。 〔ドイツ語 Aufheben の訳語。「岩波哲学辞典増訂版」(1922年)が早い例〕(三省堂 大辞林 第三版より)

一般的に解釈されてる根拠とか、みんなが前提としている定義に拠らず、かといって自分の好みや感覚に対しても「ほんとにそうか? そう言い切れるか?」って思うとしたら、出口がない気がするし……そもそも別々の感覚、別々の自分が共存してるって、苦しくない?

ないですね。

もう、そういうものだ。

そういうものだと思ってる。なんか過剰に意味付けしようとすること、バケ学とかをやっていたから、そういう……科学の世界っていうのは過剰な意味づけと無縁の世界だから。起こった事実だけがすべてなんで、そういう事実をありのまま観察するっていう態度……まあ大学時代に身についたかどうかはわかんないんだけど。

元々、そういう思考が自分にあったのかもしれない。小学校くらいの頃から割とそういう子供だったかな。みんなが先生に反抗してた時に、先生の悪口ばっかり言ってた時に、「先生が言ってることのほうがよっぽど正しいよ」って思ってた。

なにか事件が?

小学校の4年生とか5年生くらいになると、教師に対する反発とか、「あの先生、贔屓してるなぁ」とか、そんなムードはクラスの中で一定濃度、醸成されるもんで。そういうのを、「客観的に見たら、先生の言うことが正しいよな」って冷めた目で見てた。

もちろんその一方で、しゃーないことに悩んだりもするし、どっちもあるんだよ。客観的で自分を見て、悲観的になって悩んで、親と喧嘩したりする自分もいるし。

感情って何だろう

諸根さんの至福の時間は「子どもたちと音楽を聴きながら踊っている時」。

ご両親と喧嘩か……諸根君にとって、感情って、何ですか?

感情……感情はね、それはすごい面白い話で、感情っていうのは………感情はもちろんある。それと同時に、あまり感情を信用しない。ていう自分がどっかにいる。

感情を信用しすぎることに対する、なんか……感情信用しすぎちゃいけないなって、どこかで思ってる節があって。だからって、他人の感情を否定しようとは全く思わない。自分の感情も否定したくはないんだけど、でも感情だけ信じたりすることは危険なんじゃないかなってどこかで思っていて、まあそれがあるおかげで自分を客観視して、腹が立った時に、なんで腹が立ってるのかな俺……って考えたりとか、……するように……なってるなあ。

どんな人生なんだこれは(笑)

感情は、ストーリーではないのかな?

うーん、うん…………難しいそれは。

感情はストーリーの成分を含んでるって感じてるから、距離を置こうとしているとか?

あーそれはそうかもしれない。感情には……理由があってそういう感情が生じてるから、そこはストーリーなんですよ。ストーリーなんだけど、「そのストーリーを信じ過ぎるなよ、お前」っていう……「自分のことを外から眺めておけよ」って、同時にやっぱりあるんだよね。

そんな自分の中に、感情っていうすごい生々しくてドロドロしたものが出てきた時、驚かない?

あるある(笑)やっぱりそれはどうしたってあるよね。例えば、泣くこと自体は、かつてよりはるかに増えた。昔は泣かなかったし、いまは映画の予告編見ただけで泣いたり普通にするからね(笑)

特に家族ができて、子供が生まれて、子供っていうものの感情の動きにじかに触れた時、やっぱり自分もすごく感情が揺り動かされて……っていう気持ちにはなるしなぁ……。自分の子供じゃなくても、子供が転んで泣いてたら、泣きたくなるもんね。

子供が転びました。立ち上がってまた動きました。それだけで泣きそうになる。

涙腺……(笑)

涙腺は本当にゆるくなった(笑)なんだけど、そういう自分を客観視している自分がいる。許さないわけじゃないんだよ。音楽が好きな自分を許してないわけじゃないし、そういう感情や出来事に反応する自分がいるって事を認めた上で、「でも、なんでこんなことが起こってるのかな?」と。信用しきってはいけないなと思う。信じてもいい感情があるんだろうけど。感情に振り回されていいときと、振り回されてはいけない時がある。

ああ、そうか。好きや嫌いを信用してないんじゃなくて、そもそも感情に対してそうなんだ。

ある感情を抱いた時に、それを信用しすぎないようにするっていう。感情そのものを否定するんじゃない。自分が何でそう思ったのかな、っていうことを常に、もう片方の頭で考えていたいな。感情が起こること自体を何も否定しないし。……でもまあ難しいよね。冷静すぎて怒られるって事もありますからね。

冷静で怒られる?

例えば、部下が取引先と色々あって怒っている。その部下が俺のとこに状況の報告に来る。たぶん、一緒に怒って欲しいんだよね。でも、俺があまりにも冷静で、話を静かに聞くもんだから、部下としたら「かえってムカついた!」みたいな。逆に部下の怒りに油を注いでしまったってこと………「なんで俺はこんなに怒ってるのに、一緒に怒ってくれないんだ!」みたいなね、そういうことはある。

冷静さが油を注ぐ?! 冷たさって、どちらかというと火をちいさくするのに……(笑)

そうそう(笑)あれは良くなかったなーって、逆に余計怒らせるって事が、時々あるなあ。気をつけなきゃなって思うよ、最近。

「感情に対して距離を置く人あるある」かもしれない(笑)

冷たい人間であろうとしてはいないんだよ! クールを気取ってるつもりは全くないんだ! 結果としてそうなっちゃってて、「あーしまったなぁ……」って思うことが、時々。共感して、一緒に怒ってあげなくちゃいけなかったんだよなー

 


冷静さが相手を怒らせるという、
クールな人あるあるを聞かせてくれた諸根さん。

人との別れや死に対する受け取り方と同じように、
自分の感情にも客観的な感覚があるようです。

インタビューの終わり、
もう一つだけ、
LOST体験を話してもらいました。

 

諸根夫妻の2011年

ここまで、山岳部の後輩が亡くなったり、会えなくなった人がいたり、大学時代に喪失感があったりという話を聞かせてもらいました。もう一つ、奥さんが死にかけたというのは、ちょっと毛色が違う?

この話はどこまで言ったもんか悩ましいんだけど、こうー、景色を覚えているんだよなぁ。かみさんが……一個一個のシーンが、すごく思い出される。運良く助かったんだけど、運が悪かったら本当に、かみさんが向こうに行ってしまったかもしれないっていう。

……生命の危機。

そのことを……なんかそうなんだよなー。まあ、繋がってるっちゃ繋がってる。身近にいた人ともう会えなくなるかもしれないっていう出来事があって、まあかみさんの場合は、幸いにして助かったんだけど、……その…………まあ、この話には、かみさんと、もうひとつの命が関わっていて、それはどういうことかって、どう説明したらいいか難しいんだけど、……えーと、ある晩家に帰ったら、かみさんがすごくお腹が痛いと言い出しました。

すごい具合悪くなってきた。「たぶん昨日食べた卵が腐ってたんだ」と、そんなこと言ってた。最初は単純に食中毒かなんかかなと思ってたんだ。夜だったかな。次の日の朝、トイレから出てこれなくなって、トイレの中で気を失っていたんですよ、かみさんが。で、歩けなくなっちゃって、タクシーで病院に行った。

で偶然……、いやぁ、なんでだ…………。……。あの時のこと思い出すといろいろフラッシュバックするんだけど……あのー、妻が急に気を失って倒れて、慌てて、何で救急車呼ばなかったのか本当わかんないんだけど……そんなに、ただ、お腹を壊しただけだって、思っちゃったんだ、そんな重症だと思ってなくて。

それで、救急車……じゃなくてタクシー呼んで、大きめの大学病院に行った。でもお休みでさ、休日診療だったんだよ。休日で、なんで具合悪いのかもわからない、ええと……かみさんは気を失ったりとか、車椅子に乗せられている間も、何回も、気を失ったりとかしてて、どうすればいいか分かんなくて……看護師さんに「心当たりないか?」って言われて、俺も心当たりなくて、あ、それでえっと……その、「奥さん妊娠してないか?」って聞かれて、それは分からなくて、「分かりません」と。「こんなふうに意識を失うっていうことは、脳炎か……理由は今すぐ分からない」って看護師に言われて。

無理やり、尿検査できて、看護師に「妊娠してます」と言われた。調べてもらって、たまたまその日、日曜日だったから、普段は産婦人科の先生なんか居ないんだけど、たまたまその日、手術があって産婦人科の先生がいた。それで、見てもらえますってことになった。運よく見てもらえた。運よく見てもらえたら、子宮外妊娠だった。

それが破裂して、「お腹に血が溜まってる」と。「今すぐそれなんとかしないと、奥さん結構危ない」と。で、「すぐ手術します」って言われて、その日のうちにすぐ手術して、事なきを得て、結果としてかみさんは助かったんだけど、お腹の中に2リットルくらい血が溜まってた。

それじゃあ、前の日の夜にはもう、破裂してたんだ。

とっくに破裂してた。出血はどんどん続いてて、朝になってたんだね。「あと1日遅かったら危なかった」って先生に言われた。ギリギリだったけど運が良かった。その先生がいたこととか、運が良くて助かった。

子宮外妊娠って、最終的に破裂しちゃうのよ。精子が子宮じゃなくて、卵管に着床して、で破裂しちゃって、そっから血が出て、母体に影響が出る。

もしも、その先生がいなかったら……

手術自体はうまくいって、かみさんもまぁ助かった。ていう話ではあるんだけど……結局妊娠だから、子供なわけですよ。俺はもうそれは子供だ、とは思ってなかったけど、かみさんはやっぱりそこに小さい子供が居たって思ってて、6ミリぐらいの大きさだったんだけど、その………たぶんその、かみさんはそのこと事態を重く受け止めていて、俺はそれは命だっていうことに、その時は全然思えてなかった。

かみさんはやっぱりその……「亡くしてしまった命だ」っていう風に思ってて、その受け止め方の重さみたいなもの? そう言われた時にハッとした。妻が助かった、もちろんよかった。子宮外妊娠したってことは、その時点で破裂することは、もう決まってた。流産しかない。帰って来られない命だったんだけど。それでもやっぱり、それが命だっていうこと自体を、自分は全然、そう思ってなかったんだけど、かみさんは重たく受け止めてたっていうこと。

これは一人目の子供が生まれる前だね。

その時に、ちょっと何て言うか、「自分がこんな冷静でいちゃいけないな」って思ったんだよ。もっと慌てないといけなかったし、何もできないことに対して……もちろん病院に連れてった時点で、もう後は何もできないから任せるしかない。「あまりに無力だな」って思ったし。「このままかみさんが死んじゃったらどうしよう」っていう……そんなことすら考えられないくらいだったかな。「何がどうなっちゃうんだろう」っていう不安がすごかったんだけど……その時ちょっと冷静すぎるのも考えものだなって。命の重さっていうと……。……。なんか、大げさなんだけど……受け止め方が違うことに対してもショックだった。

子宮外の妊娠の子は、生まれて来られないんだよね? そうなるしかないんですよね?

そうなるしかない。

だけど……割り切れなかった。

そう、かみさんは割り切れなかったんだよね。その受け止め方の違いってのが、申し訳なかった。うちのかみさんは泣いたりする人じゃなくて、でも辛かっただろうなって、後になって思って。

それから2人で振り返れたのって、いつ頃でした?

なんだろう……いつ頃だったかなあ、子宮外妊娠は2011年、春の出来事なんだよね。そのまえに3.11の震災があって……その年、5月に俺、結婚パーティーやったんだ。

数年分の体験が詰まった1年間のような……

子宮外妊娠は3月から5月の間に起きてる。3.11から結婚パーティーの間。よくこんな出来事があったのに、結婚パーティーしたなーって自分でも思うけどね(笑)

でもそうだなあ、どのタイミングでかみさんとこの話をしたんだっけなあ。旅行に行ったんだよな、神社とかお寺にお参りして……なんかそれは別に生まれて来なかった子供の事があったからではなくて、かみさんが元気になったから旅行に行こうって言って出かけて、お参りしたあと、「子供の事を考えた」って、かみさんが。その時に俺はすごくびっくりして……かみさんが「名前も付けて、その子のためにお祈りした」って。

諸根君は、なんにせよ奥さんが助かって良かったと思っていて、奥さんはずっと子供の事を考えてて、その場で初めて、お互いが違うことを考えてたって、分かったんだ。

まあだから、そういう点でも、あまり冷静すぎるのも考えものだなって……人の感情をないがしろにする気はさらさらないんだけど。

……………。

これを言うと今までの話が随分……食い違って聞こえるかもしれないんだけど、この出来事が自分の人生にどういう影響があるか、ということ、あまりなくて、後輩が死んだ話と、会えなくなった友達の話と、まあ、今の話……その……こういうことを経て、特にこの、かみさんが死にかけた話……さっきその、「楽しい時間と表裏一体の、時間が過ぎていくことに対する悲しみがある」っていう話をしたと思うんだけど、それと同じような感じで、自分はたぶん幸せだったんだなぁと。

幸せっていうのはどういうことなんだっていうと、恐怖だな、と思ったの。何か失いたくないたいものが近くにあって、それを失うことへの恐怖っていうのが、常について回ってる状態が幸福だなと思った。何か失いたくないものがあって、それを失うことに怯えている状況っていうのが幸福だから、幸福ってのはイコール怯えとか、恐怖のことだな。失いたくないものがそばにあるっていうのは幸福である。

これもまあ、自分の幸福を一歩外から見てる状態だけどね(笑)

まさに(笑)

純粋に享楽的な幸せってのはありえないな。失われる可能性を孕んでいる。一緒になった状態でしかないな、失われる可能性と幸せ。物であっても、大事な人であっても、友達であっても、人間関係であっても、お金が大事だっていう人もいると思うし、

すみません。閉店のお時間です。
はいー
出まーす


(おわり)

 

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