日常

「泡のように 2」鈴木真由美

ラジオ業界で働く鈴木真由美さん。ながく音楽活動やバレエを続け、料理の腕もピカイチ。20代中盤からの人生を「自分の思った通りに生きる事が出来ていた」と振り返ります。そんな鈴木さんの人生一変させたのが、2011年の大怪我。倒れてきたロッカーの衝撃でムチ打ちになり、後遺症も長期化。ベッドから起き上がることもできず、鈴木さん自身「地獄絵図だった」といいます。生きる気力さえ失う泥沼から、どのように戻られたのか……? 核心が語られる第2部をお届けします。

プロフィール
鈴木真由美(Suzuki Mayumi)
東京都出身。電子音響バンド『oscillator』(オシレーター)では作詞・ボーカルを担当する。4歳からクラシックバレエを始め、武内正夫、江川明等に師事。10代後半からヨーロッパ、アメリカ、沖縄やアジアの離島などを旅し現在に至る。至福の時間は「美しいものを見て感じて食している時」。「それを誰かと、何かを共有し理解し合えていると感じられる瞬間。話すこともそうだし、ライブもそうだし、美味しいご飯を食べている時も」。

声のイントロ

 

苦しみや悲しみへの想像力

音楽が特に辛かった。Twitterで「イベントやります」とか「リリースされます」って見てるのが辛くて。

鈴木さんは音楽仲間や友人が主催するイベントに通ってたし、バンドの営業活動も担当してましたよね?

そうですね。音楽活動にも積極的で、プライベートな時間も使って自分なりに頑張ってたつもりでしたね。

でも外に出られなくなると、音楽仲間の活躍を見るのが辛くなって、誘われても行けないことが続けば、みんなも誘って来なくなるし。

…………。

「一緒にライブをやろう」と声をかけてもらっても、精神的にまったくもってやれるような状態じゃないし。そういう時期が長くなって、Twitter見るのもやめちゃった。

だから何か、やりたくてもやれない人とか、もがき苦しんでる人がたくさんいるっていう現実感が得られた気がします。それは例えば、パラリンピック。元々健常者の方が事故などにあって、障害者スポーツを始めた場合、絶望の淵から這い上がってると思うの。アスリートだし、つよい感じに見えるけれど、どれだけ苦しんだのだろうかと。今は想像がつくから。

競技場やプールで頑張ってる姿しか、見えないですよね。

事故に遭うまでは、そこまでは分からなかったんですどね。

……でも、「他人の辛さなんてわからなくていい」とか、「自分のことじゃないから知らないよ」と思っていたわけではないですよね?

わからないと思ってはいなかったけど……なんだろう。ものすごい大病してる人とか、誰かの介抱をしている人とか、そんなに……たくさんは居なかったのかも知れない。自分の周りに。

居なかったし、気にかけてはなかったのかもしれない。精神的に闇を抱えているとか、いろんな背景がある人たちは居て、わかってたつもりだったけど。

それもバリエーションがたくさんあって、大人になるたびにわかるから、なんか……いろんな人の苦しみが見えてきたっていうか。「人の苦しみがわかる」っていうと、おこがましいんだけれど。

苦しんでる人が見えるようになった? それとも、苦しさには様々な種類があることに気づいたんでしょうか。

そうですね。いま普通にしてる人でも、背景になにがあるかわからない。ほんとはすごい薬とか飲んでるから、元気でいられてる人とかいるかもしれない。しゃがんで物を拾う動作が、病気や怪我をした瞬間から出来なくなってしまう人もいるかもしれない。そういった苦しみを他者から以前よりも感じますよね。

それ以外にも、人の面倒を見てる人とかもいるじゃない。苦しみって種類がすっごいいっぱいある。怪我してなくても会社で苦しい、とかもね。少しだけ前より、視野が広がったのかなぁ。

 

汚れていても、死なないよ

職場での怪我ですが……あれは、不慮の事故ですよね?

うん、事故ですね。たまたま、ロッカーの鉄の扉が倒れてきた。それが頭に「バーン!」って当たった。ひどいよね、ちょっとズレてくれてたらよかったんだけど(笑)

……限界だったのかもしれない。

限界? 暮らし方とかメンタルの……生き方の限界?

うん。

そもそも生き方や暮らし方が限界に達してて、その状況でロッカーが倒れてきた。

そんな気がする。

なんか、そこでもし倒れてこなかったら、別のときに来たかもしれない。ライフスタイルを見直すきっかけになったし自分を許してあげることを覚えたかな(笑)

それ以前は、自分を許すという感覚がなかったんですか?

だって「なんでもできる」という感覚だったし、自分が「これが100だ」って思ったことを、ちゃんと100まで終わらせるのが自分だって思ってたから。

それを「いいんだよー、100出来ないなら。20でも。30でも」って。そう言わざるを得なくなったんですね。

100できない自分をずっと責めていた。だけど、生きることが辛くなりすぎちゃって。それで「自分でしか、自分を許せない」って気づいた。周りがいくら、「いいんだよ」って言ってくれても「いやいやいや……私は前は出来たんだ。悔しい」って泣きながら。ずっと何ヶ月か、何年か、責め続けて。自分で「いいんだよって言ってあげないと可哀相だよ」って気づいて、はじめて……やめました(笑)

やめたっていうけど……「あー、自分のこと責めるの、やーめた!」みたく、急に開き直れないですよね? 少しづつ変化したのでは?

そうですね。生々しい話、ある時期、家とか部屋とか片付けられなかったし、ご飯も作れなくなっちゃった。

…………。

欝の人ってそうなるらしいんだけど、それも嫌で。「できない自分ダメだ」、みたいな。でも、これ以上自分のこと責めたってなにもいいこと起こんないし、「まあいいや」って思う事にしました。

洗濯カゴにいっぱい服が残ってても、着られる服を着ていけばいいやっていう気分になった。台所に食器が溜まってたら、前だったらすぐに片付けてたんだけど、「ホコリじゃ死なないから大丈夫だよ」って(笑)昔、鬱で同じ体験をした親友が言ってくれた。

「ホコリじゃ死なない」って、シンプルですけど……その通りだし、なんか奥深いですね。
私も、すごくありがたいって思いました。
凝り固まったものが和らぐ感じがしそうです。

 

落ち込みと、すこしづつの蘇生

怪我と病気で何も手に付かなかった頃の私って、傍から見れば普通の人に見えた思うんですよね。杖突いたり、してたわけじゃないから。外見は普通の人だった。

ロッカーが倒れてきたのは8年前で……ひょっとして、最近ですか? 自分を責めて、よからぬことが頭をよぎるような状態から、だんだん気持ちが変わって、振り返れるようになったのは。

……5年くらい前、わたし、回復の度合いは5割程度だった。3年前くらいでやっと6割になって……7割来たなって思えて……毎年そうやって来た。つい最近、「かなり治ってきた」って思った。8割ぐらい。

さっき、「人って、他人からは見えないところに、苦しさや悩みを秘めてて、私はそれには気づけない。気づけてなかったと、わかった」という話をしてくれましたよね。

うん。

あれは……怪我をする前にはなかった感覚だったんですよね? 

そうですね。

あらたな感覚が生まれた一方で、以前のような状態に……80%くらいに戻れてる……回復している……というのは、どういうことなのでしょう?

体や頭が、思い通りに動くようになってきたっていうのは、あると思いますね。

感覚の質とか、肉体の機能とか?

たとえば昔は、喋ったことを3秒後には具現化できるような感じだったんですね。全部一体で。何かを見て、言葉を発して。イメージしたら形に出来てたんんです。何でも。家事でもそう。昔は思いついて、行動までが瞬間で出来た。

見て、感じて、イメージしたら……実現できていた。

具現化っていうと大げさですが、すぐに行動に移せたし、言葉を発しただけではなくて、行動して終わらせるところまでがセットだった。

体が悪くなると、イメージもできなくなる。

イメージというか。見たときに、感じることもできなくなるし、全部が……なにも、ないのかな。うん……。

具合が悪いと、イメージが湧かない?

湧かないというか、イメージすることが、苦痛というか……なんていうか……。なんだろう。すべてが。

……。

思い浮かばないんですよ。

このとき「イメージが苦痛。なにも湧かない」っておっしゃっていましたが……鈴木さんでしたら、なにも考えないでいるのは難しそうだというか、様々な思いが頭のなかに巡ってしまいそうですが。
プレッシャーを与えないような感じにはしてました。
そうですよね。プラスの想像力は、なかなか働かないでしょうし。
色んなひとが励ましてくれたけれど。怪我をしてすぐの頃は、体と思考がぜんぜん結びつかなくて。それが長い間続いた。

 

黒川君の「LOSTの体験を消したいですか?」という質問については、消さなくていいと思ってる(笑)

得るものがたくさんあったし、精神的に困難な人の気持ちが、前よりはわかるようになった気がするから。

で、最終的には「誰も、私に期待してない」って思うようにした。

 

人生が「泡」ならば

ひとつだけ願い事が叶うとしたら「生きてる間中、ずっと笑っていたい」と鈴木さん。

前は、色々な方から「はやく次の作品が聴きたい」とか、そういうことを言ってくれることが嬉しかったのだけど、同時にすごく辛くなってしまった時期があった。

でも今はそうじゃなくて、やりたくなったらやればいいし、生きてることがとてもクリエイティブな行いだし、今この瞬間を楽しもうって思えるようになってきた。

それで楽しむことのひとつに、もし「表現」っていうのが入って……浮上してきたなら、やればいいと。

音楽とか、なんでもそうなんだけれど「プレッシャーになってやるものじゃない」って思った。無理やりやるものじゃない。出来ないならやめればいいって。誰も期待してないって、思えばいいって。

「LOSTの経験って、なんだったのでしょう?」って質問ですが、私の場合は「以前に自分が拘ってたことは、それほど重要じゃない、っていうか全然重要じゃないって気づけた機会」かも知れない(笑)

矛盾しているように聞こえるかも知れないけれど以前の私は、何かを作ったりする事はすごく重要なことだと思っていました。でも実は生きてることを楽しめないと、どんな素晴らしい作品を作ってもあんまり意味がないという気がしたの。

今は、今を楽しむっていうことが、私のやらなきゃいけないことだって思ってるから、そこを基点にすれば、苦しくないかな。

生きてることがクリエイティブな状態なのに、かつての鈴木さんは作品を作ってないと……

生きてる気がしないって、そんな気が、しちゃってたの。でもそうではなくて、さっき言ったように無意味な生産活動じゃないけど、泡が生まれて消えていく……泡が生まれて消えていくの繰り返し? 有機体としての。

それが、すべてというか。もう最後は居なくなるわけだし、身体なんて……ただ単に生まれてきたから、死ぬまでの間を、なんか、生まれては消えていくの繰り返しをやっているだけだ。って気が、やっぱりしてて。

ドライな現実感……なのでしょうか。

まあまあ、渇いてるかな。前はもっと、人間らしい何かを求めてたのかなぁ。なんか、ロマンティックな考えがあったんだけど、いまは、違う。人は、単なる生命体で、別に意味はないって。そこに意味を持たせようとするのが人間なんだけど、よくも悪くも。

でも動物とか考えたら、一生懸命生きてるだけじゃない? その場、その場でさ。それを見ると、私も潔く生きたいと思うようになった。

例えば葛藤することに意味が無いっていうのではなくて、生まれて消えてゆくという一連の流れが事実として存在するのならば、それは楽しいほうがいい。楽しく生きたほうがいいと思うようになった。

ただ単に泡が生まれて、ただ、「ふっ」て泡がはじけて無くなるっていうのが、私たちの人生なんだったらさ? 「こういう風にやったら、もっと楽しいね」って思いながら、作ったり、生きたりする方が良いだろうと。所謂作品なんて作らなくても、生きていたら全員何かを必ず作ってると思うし。

 

何者でもない私として

やっぱりどの世界でも闘っている人はいると思う。社会っていう枠のなかに存在している限りは、なにかの地点で闘いにならざるを得ない部分があるでしょ。

それは争いっていう意味ではなくて、相対的な評価みたいなものは絶対に避けられないという事。私は音楽をやめたわけじゃなくて、変なプレッシャーをかけるのをやめた。作品を出すタイミングとかにプレッシャーを感じたり、そんなの、やりたいときにやればいいんですよ。誰も「やって」って言ってるわけじゃないんだから。

今日から令和じゃない? 私たちって、個人差はあるけど、たぶん長生きするじゃないですか。昔の人とは人生設計が変わってきてる。もう年齢で区切れない。80歳になって、急に何かやったっていいんだし、前の枠組みはもうナンセンスだなって心の底から思う。その点だけは、誰かが考えた人生のフォーマットに則ってやろうと思ってないから、生き方を一生懸命模索したり考えたり、すごく興味がありますよ。

なんだか……そもそも、真剣に模索された生き様から生み出されたものが、イノベーションを起こした技術だったりジャンルだったり、「新しい」って言われる作品になったのかなと、あらためて思います。

そうですよね。いまは切りとった部分から始まっちゃってて、自分たちは切りとった部分でやろうとしてて、気づいてなかった。実は、もしかしたら……自分が生きるってことのひとつの表現のなかに、そういったものがあったのかっていう。

音楽なら、ロックとかジャズとかクラシックとか、そのジャンルの中でも時代とかスタイルで分かれていて、特徴を抜き出して使おうと思えば、使えますよね。特定のアーティストのスタイルも真似られる。

私も、もがいてしまってた気がする。「本当はそうじゃないんだよ」っていうようなところに立ち返ったっていうか。とりあえず私は何でもない、何者でもないし、何者かになりたかったわけでも無かったのかも。けれどもこれからも、思考実験だったり、クリエイトはしていきたいですね。

この5年くらいかな?

昨日の私が今日の私であり続けている事は、本当なのか?って思っていて。

極端に言うと、昨日の自分と今日の自分は全く違う自分のような気がしてるんだよね。

毎日生まれ変わってる。毎日違ってる。

鈴木真由美が鈴木真由美であると言う事も実は不確実な事なのに、社会とか組織とか家族とか?名前とか戸籍とか、その他諸々の仕組みや固定的な存在が、常に形を変えて存在している私を型にはめ込みその存在を確保し、縛っているような気さえしていて……それを心地よく感じている人がたくさんいるのは理解してるのだけれど、私はあまりそういった事に興味がないのかもしれない。
だからそう考えると、鈴木真由美という存在さえ「ねつ造」なんじゃないか?とか。

毎日細胞が生まれて変わっている感覚が強いし、個人的には自分を担保しているものは幻想に過ぎないとすら思う。

自然の一部という観点から見れば、そもそも意味なんてないものに、みんな意味や意義を持ちすぎなんでは?と思ったり。

ポジティブな言い方をすれば、今日の私は新しい私なので、昨日までのすべてはリセットされている。そんな感覚がとても強い。

過去とかノスタルジーに生きるのは興味があまりなくて、リセットされて再生される自分とか世界に興味がある。

だから、ロストと対峙するという事は恐らく、過去に対峙するという事なのだとすれば、実はいまの私にとってはあまり興味の対象ではない事なのかもしれない。

私は過去ではなく明日の新しく再生された自分や世界を見たいんだと思う。

以前は、昨日と今日の自分に、そんなにギャップを感じなかったり、疑うこともなかったですか?
完全になくなったわけではないです。私が両親から生まれてきた事や、その親や祖先の事は事実なんだと今も思っています。ただ、自分個人として現在存在してる事に大いに疑いを持っているところはありますね。私が今夢を見ているだけのか?現実なのか?さえ、完全に証明する事ができないからです。
鈴木さんが「自分ってなんなんだろう」みたいな恐怖や不安に苛まれず(苛まれることもあるのかもしれないけど、それよりはずっと)「日々あたらしい」と思えて、それを期待していられるのは、なぜなのでしょう。
事実として、毎日毎秒細胞は生まれ変わっています。

過去はたとえ1秒前のことでも変えられません。

日々今そこにあることに向き合う事が真摯な態度かと思っていて、過去は死んだ細胞として考えます。1秒ごとに変わっていく今を確実に捉え、真剣に受け止め生きることこそが、結果として過去への敬意にもなりうるし、私にとっての生きるという事になっているからだと思います。

「翌日(未来)に再生される自分や世界」のように、「記憶が新しくなる/過去の出来事に新たな意味が見つかる」という感覚ってないですか?
毎日ありますよ。過去への意味づけ、そこに関しては人間らしい行いだと思っています。そして、同じ記憶に関しても考え方は日々変わってゆきますね。

最終的にロストに興味がないのは、、

死んだ細胞には興味がないからかも知れません。なぜなら、それらは人間が作り出した幻想でありノスタルジーだからです。動物だったら、失うことは当たり前の事だからです。

私はより良く生きたくてずーっと考えてきたなかで。こんな風に考えられれば、すこしでもラクに生きることができるのではないか?ということで。思考回路はいつでも自分で設計し直せると思っていて、どんどん更新してきた結果でしかないけど、昔からのウエットな根本にある思考がすべて失われたわけではないと思う。そこだけ、誤解されてしまわれないように伝えます。

 

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