演奏

「あの人が踊り出すピアノ」小林このみ

「死者が棺をがらりとあけて踊り出す、そんな演奏を目指してます」という小林このみさん。鋭く、際立った言語感覚はピアノ演奏にも通じ、知られた曲であっても、小林さんの鍵盤からは新たな声が聴こえるようです。ところが、ご自身は「演奏中の記憶は残らない。体感も思い出せない」のだとか。あれほどのピアノを弾きながら? 演奏の記憶や体験は失われ続けている……?! 小林さんは日ごろ、音楽や演奏の感覚を言葉にしないそうですが、今回、特別に話してくれました。

プロフィール

小林このみ(Kobayashi Konomi)
前橋市生まれ。4歳よりピアノを始める。東京音楽大学卒業。
2009年にダーティントンインターナショナルサマースクールにて、故サイモン・ヤング、マルティーノ・ティリモのマスタークラスを受講。2010年より一年間トリニティラバンコンセルバトワールに留学。
帰国後は、小説、ダンス、映像など他ジャンルとのコラボレーションなどを中心に活動している。
無人島で暮らすなら「大量の石鹸(固体)と小刀セットを持ち込み、刻んで過ごしたい」。

声のイントロ

演奏

日時:2019年5月3日
曲名:プレリュード、コラールとフーガ
作曲家:セザール・フランク
場所:門前仲町シンフォニーサロン
録音:スマートフォン
※インタビューの一環として、小林さんに演奏してもらった。ピアノは調律していない。

イーサン・ホークの狂気

小林さん、今日はお話だけではなく、演奏まで聴かせてくださってありがとうございます(インタビューはピアノ演奏の後に行った)。1月のコンサート(※)も凄かったですね。神ががったショパンの演奏が頭のなかで甦ります。

2019年1月20日に行われた「小林このみソロ演奏会 冬の音楽」。小林さんはシェルシ『クアトロイラストツィオーニ』、ショパン『ノクターン 遺作』、フランク『前奏曲 コラールとフーガ』などを演奏した。

ありがとうございます。でもショパンは今後、演奏会など、人前では弾かないと思います。

なぜですか?

出会い方の問題かもしれません。大学時代から周りで当たり前のように弾かれていて、私自身、留学先(ロンドン)でもその流れに乗って、なんとなく弾いていたんです。

もちろんショパンは好きだし、勉強になるけれど、これからも自分の日常に取り込みたい音楽とは言えないんです。それよりも突然出くわして、ショックを与えてくれた音楽を弾きたいと思うようになりました。

もしくは、実は、時期尚早なのかもしれない。とも思います。それは自分では今はまだわからないですが。意識はしてるのに、弾きたくないと思う理由は、いくら理由を探しても結局はっきりとはわかりません。てのが今の思うところです。
黒川さん、『魂のゆくえ』※は観ました?

※2017年にアメリカで公開されたドラマ映画。主演のイーサン・ホークが罪悪感を抱える牧師を演じた。監督は『タクシードライバー』や『レイジング・ブル』の脚本を書いたポール・シュレイダー。日本公開は2019年4月。

あー、まだです。小林さんは?

観ました。凄かったです。イーサン・ホークはどうしても、この映画に出たかったんだろうなって思いました。

後で知ったのですが、ポールシュレイダーは、イーサン・ホークを主人公に当て書きしたそう。だからあのリアリティか!って感じでした。
これまでの出演作と『魂のゆくえ』とで、なにか違いが?

イーサン・ホークは『シーモアさんと、大人のための人生入門』というドキュメンタリー映画を監督したんです。主人公はシーモア・バーンスタインという、今90歳くらいでしょうか、ピアノ教師で。

もともとイーサン・ホークはステージ・フライト(舞台上や本番であがってしまう症状)で悩んでいたらしく、この映画の中で「シーモア氏に出会って救われた」みたいなことを言っています。アップに光をあてた撮り方がよく出てくるなど、まさに神に触れるようなカメラワークでシーモア氏を撮影しているんです。彼の金言もたくさん出てきます。

カメラワークと金言に嫌味はまったくなく、面白くて好きな映画ですが、なんだかシーモアが教祖である宗教を観ているような気分にもなりました。絶望した人が神を見つけたような視点だなあと。

で、「イーサン・ホークといえば、ああいう映画を撮った繊細で優しい人」みたいなイメージで『魂のゆくえ』を観たら、彼の狂気の表現というものが予想してなかった迫力でかなり衝撃的でした。

普通に演技してる目の奥に狂気が見える。神父の役です。怖い。そしてそれが、ずっと何事もないかのように続いていく。一言も発しなくても人を惹きつけるヤバさや、彼の身体中に言う事をきかない重みとリアリティがあって、「なんだこれは」という感じでした。

あの迫力を見て、「この人は物事を考えこんだら、とことんまでいきそうだし、シーモアさんの映画を撮った時、絶望は度を越していたのではないか」と思ったのです。

踊りは命のエネルギー

LOSTという言葉で思い浮かんだこと、なにかありましたか?

うーん……特にないんですよね。喪失感で言うと、さみしさは死にました、中学生の頃(笑)

いきなりショッキングな告白ですが……(笑)

親しい人が亡くなれば、喪失感もあるけど、会えなくなるだけ、かなと思います。でも人に会えないというのは、日常ですよね。だからか、人を亡くしても、喪失したという意識が、あんまりなくて。喪失感があったのか、喪失したときどう感じたのか……思い出すのは難しいです。

ただ、喪失感に苛まれている間って、お風呂につかると涙が止まらなくなるんですよ。ふと自我が戻って、また消える。LOSTを経験すると、そんな状態にはなります。

黒川さんは食事中、気絶したことありませんか?

食べてる最中に……んー。中学の部活がきつすぎて、帰ったらクタクタで、晩御飯を食べている最中に眠って、茶碗を落としたことはありますが(笑)

お寿司食べてるとき、私、気絶したんですよ。

寿司?

千歳烏山の『あらい』って寿司屋なんですけど。いくら、まぐろ……トロ、トロですね……ホントに気を失った。匂い、味、最高で。

気絶する美味さって、存在するんですね! お金ためて絶対に行きます(笑)

ディナーで1万5千円ぐらいだったと思います。あれは凄かった。

人間の五感って、受け付けられるキャパを超えると気を失わせるんでしょうかね。気絶するほどいい匂い、とか。意識が飛ぶほどのさわり心地……とか。

ああ、匂いや触感は経験してないですけど、音楽はたまにありますね。ほんとうに凄い演奏を聴いているときは気が遠くなります。

自己や自意識の喪失……消失ですね。忘れ物や失くし物など、物にまつわるLOSTのご経験はありますか?

イヤリングとか、ときどき落ちちゃってて、あとで気づきます。

あ……黒川さんと一緒に練習してた頃(※)、帰りに路上で呑んでて、楽譜を置き忘れたことがありました。

※2014年11月、小林このみ&黒川直樹で共同主催したピアノと音読ライブ『場に致す』(会場:Ftarri)。小林さんはベルク『ソナタ』やバッハ『シャコンヌ』(プゾーニ編曲)を演奏。テキストの音読も行った。

池袋のファミマ前ですね! どの時点で「楽譜がない」って気づいたんですか?

帰りの電車の中です(笑)

わりと直ぐ(笑)それで、取りに戻られた?

いや……たしか翌日の朝に警察に電話したら「ありますよ」って、池袋警察に届いてたんです。楽譜によっては手に入りにくかったり、もう買えないものもあるから、あのときはさすがに焦りました。「ヤバイ!」と(笑)

親切な人に拾われたんですね……(笑)そういえばFtarriのライブ、メインの演奏曲は『シャコンヌ』でしたが、なぜあの曲に?

ライブで何を弾こうか考えていた頃、フィリップ・ドゥクフレの『カレイドスコープ』を見たんです。

ある映像のなかで、ダンサーのバンジャミン・ミルピエが駅とか道とか、いろんなところを踊りながら移動して、実際にその場にいる人たち(エキストラではない人たち)にぶつかりそうになるのを、ずっとカメラが追っかけてたんです。

最後は、ミルピエがダンスの部屋みたいなとこに辿りついてました。あれを見て、「踊りは生命のエネルギーそのものだな」と感じたんです。

ただ、今みたらどう感じるか、わかりません。そのときの心境でなにを感じるかは変わるから。その時はたぶんそれを観て、わたしは自由になりたい、わたしも違う形で踊りたい、と思ったのではないかと。
映像作品のダンサーと演出にインスピレーションがあったんですね。

当時……というか、その数年前からですけど、体が動かないくらい気が滅入っていて、音楽をダイレクトに聴けない状態でした。

一方で、映画やダンス、舞踏をたくさん見て、その中に出てくる音楽を聴いてました。他の表現と音楽が一緒になっていれば、比較的聴けたんです。

たしか……小林さん、ピアノ留学されていてたロンドンから生まれ育った群馬に戻られ、数年間、ピアノが弾けなくなったとか?

そうですね。弾けなくなった理由は一つだけではないですが、留学前から帰国後に一気に必死で詰め込みすぎて、やりすぎてノイローゼっぽくなりました。強迫観念が原動力でうまくいくこともあれば強迫観念に潰されるだけの時もありますね。

そのような心境や日常のなかでバンジャミン・ミルピエのダンスを見て、つよいエネルギーをもらった、と。

舞曲であれば弾き手をも踊らせてくれるからその力で弾ける、「舞曲なら弾ける」と思いました。

あのときの『シャコンヌ』も、小林さんにしか表現できない演奏だったと思います。

ただ、あれからずいぶん経ちますが、BACHがソナタとパルティータをなぜ組み合わせたか、本当の意味はわかりません。土や這う土台がなければ人間は飛翔できないなあとは思います。

インタビューの場では伺えなかったのですが、小林さんにとってピアノは土台ですか? それとも翼ですか?
実は、土台でも翼でも、どちらでもない。できれば関わらなくてよい人生だったらもっと楽だったのかもしれないとか思います。土台でも翼でもなく、重り、がふさわしいと思います。

ひとたびピアノから離れてしまうとそのことばかり考えて、たぶん依存してて、それでたくさん犠牲にしてきたこともあるなあと。自分すら鬱陶しくなるし、他人も鬱陶しくなる。バランスを欠くと大切なものを見失います。
ピアノという重りがぶら下がった日常……。演奏中にも重りの感覚が?
練習している最中は、曲調によっても、しあがりの状態によっても自分の気持ちがかなり左右されます。ずっと何かを呪ってる気分の時もあります。でも、それでも、それを引き受けて、最近は、共依存の関係になりたいと、おもってます。そう覚悟しないと曲とは対峙できないなと。

売り払おうとしたピアノ

いま、「これは失くせない」というものはありますか?

買い集めたCDは失くせないし、誰にもあげられないですが、ひとつ言うとしたらピアノですかね。

ご自宅の?

はい。でも、いちど売ろうとしたんですよ。

ピアニストの命!

ははは(笑)

いつから使っているピアノですか?

中学生1~2年生の頃、おじいちゃんが「ピアノをちゃんとやるなら」って買ってくれました。

はー……思い出深いですね。って、そのような楽器を手放そうとするとは!

(笑)

心変わりの原因は?

調律師さんに会えて、その方の調律が本当によくて……そうそう、黒川さんとLIVEしたじゃないですか。あのとき、Ftarriのピアノを調律された方です。北千住に住んでらっしゃるんですけど。

じゃあもし、FtarriでLIVEしてなかったら……今頃……

かもしれないですね(笑)

いやぁ……なんとまあ……。でも、小林さん? 「ピアノ、やめようか」なんて心境を一変させるほどって、その方の調律、どのような凄みが?

んー、圧倒的に違うんですよ……まず音色と感触がまったく違います。

おなじピアノ、おなじ鍵盤……でも?

ひとつの曲を弾くとき、頭のなかに演奏の最高のイメージはあって、でも、そこまではふつう……行けないんです。練習を重ねて自分の演奏に慣れてきて、その演奏を想像しながらピアノを弾きます。

楽曲をなんども練習してインプットして、そのメロディや体感を頭のなかに呼び出しながら、重ねあわせるように弾くような感じでしょうか。

想像の範囲が減ってきます。形ができてくる程、イマジネーションが足りなくなるんです。形ができかけてしまっているので、自分で無意識に表現の可能性を決め付けてしまいます。

人前で弾くとしたら、ある程度の形まで仕上げる必要があるけれど、形にするほど形に捉われたり、楽曲の可能性を引き出すどころか逆に狭めてしまったりするんですね……

それは今のところ自分ではどうにもなりません。

ただ、あの調律師さんに調律してもらうと、思った以上にいい音が返ってきます。その音に刺激を受けたり、感激したりして、あたらしいイメージが膨らんで、つぎが弾ける。

実際に音を作るのはほんとに大変ですよね。湿度も違うしピアノも違うし。感覚で感じたのを身体に反応させて覚えさせる以外に方法はないのかなと思います。

ただ、よい音は上に飛ぶ。それと、うまく行く演奏は届くんですよね。届くって感じがします。

死者が棺を「がらり」とあける

2019年の夏、小林さんは現代音楽の講座を受講。その演奏会でジョン・ケージの「ホロコーストの名のもとに」を弾いた。 上の写真は、小林さんが演奏会に向けてレッスンしていた頃のピアノの状態。 楽譜にはボルトを入れる位置が指示されているが、入れるネジやボルトの種類によってもかなり音色が変わるため、小林さんは大量のネジ、ボルトを購入し、試した。 ご本人いわく、「部屋がネジ地獄のようにネジのカオスになりました(笑)」

小林さんが理想とする演奏は?

「その場にいない人」に届くような演奏が良い演奏ですね。

「その場にいない人」というのは……

長い道のりですが、死者が棺をがらりとあけて踊り出す、そんな演奏を目指してます。

死者が踊り出す……生きていない故人にも届くようにですか……。実際に、そのような感覚になれた演奏は?

昔、どんな演奏をしていたか、まったく記憶がないんです。

まったく!?

弾いている最中のことは思い出せないんですよね……学生時代の試験など、「ああ、もう一度弾きたい」と後悔の念が残ることは多々あって、そういうのは覚えてるんですけど。

最近は失敗しても悔いのような感情はあまりなくて、「絶対にやり尽くした」と思えるように弾きたいんです。

結果失敗することありますが、それは実は大したことではなくて、逆に、こないだ気づいたんですけど、調子良くうまくいった時の演奏は、実はその後演奏する時の強迫観念として残ってしまうなーと。

「こないだの、ああいった、良い感じで弾かなければ」という枷や重石になるということですか?

そうです。強迫観念です。だからそれをどんどん消去していく、ということが大事な作業だと思ってます。どんな結果だって全力でやれたらすべて次に繋がるし、どっちに転んでもリスキーで、でも楽しいなあと思います。

演奏って、どんなに苦労して準備しても一瞬で消えるので、それも性に合っていると、あらためて思います。

小林さんにとってはピアノ演奏こそ、LOST体験なのかもしれないですね。『シャコンヌ』もベルクの『ソナタ』も、一月のコンサートのショパンも、音源があれば、また聴けるのにと思ってしまいますけど……(笑)

大切なものは、とっておかずに、ぽいぽい投げ捨てて行きたいと思うことがあります。

でも、こういう話って、本当はあんまりしたくないんです。

LOSTとか、音楽とかですか?

音楽に関しては、とくに(笑)

たくさん伺ってしまいました……でも、どうしてですか?

言葉だと簡潔に言えてしまうから、ですかね。どんなに言葉にしても、なにか嘘をついてるような気になります。

あとは、音楽が多面的なものだからかもしれません。映画でいえば、予告編は本編をわかりやすく紹介するだけで、映画作品とはまったく別物ですし、それこそ小説もひとことで語れないですよね。

真実はすべて演奏の中にあると思います。批判されるような演奏でも、それが私の今の表現能力や、未来、過去を含んだすべてだと思ってます。なので、今日も最初に音を聴いてほしかったんです。

そして、音楽は瞬間的なもので、あらゆる音楽はある瞬間のために作られていると最近、気づかされました。

作曲家に音楽を作らせた衝動が何百年の前の出来事であれ、今現代の誰かの特別な一瞬と重なったら、その時、自ずと演奏する意味が発生するのではないかと。

いま、一瞬、静電気に触れたときのような感じがしました。
大事なのは、その時のためにいつも準備をしておくことで、練習なんて人生の不思議さに比べたら、とてもわかりやすく、目的もはっきりしてるけど、大事なのはそのわかりやすさと、人生のわけのわからなさを接続することではないか、と最近思います。
わけのわからない人生を音楽で説明したり、楽曲に置き換えたりするのではなく、別々のまま、ただ、つなぎあわせるんですね。
日常には体を刻まれるような、残酷で悲しいことがたくさんある。その痛さと音楽の技術を結ぶことが出来れば、芸術に触れられる(芸術を作り出せる)と思ってます。最近、そう思い始めました。心がいたんだり、病んだり、喜んだり、すべて体で浴びて感じることは大事だと。

大事な人に手向ける花は、日々の地道な練習によって、手に入れ、いつかその誰かに捧げることができるかもしれない。生きていく上で、その可能性を追求するのには大きな希望があります。だからこそ、技術や練習、耳の鍛錬、はものすごく大事で。

こうして考えてると、練習がきついなどと文句をたれる必要は、まったくないと気づかされます。

小林さんの演奏に、今日、その限りを尽くしているかような状態を見ていました。でも、この記事を読み返していると、ぼくが思う「私」とか「今」みたいな設定・限界では、とても括れない感覚でピアノを弾かれているのだなと、はじめて……とはいえ、ほんの少しですが、小林さんの想像力や体感の一節を、聞かせてもらった気がします。

「手向ける」や「捧げる」といった感覚の先に、100年前の誰か、100年後の誰か、あるいは、この場にいない、生きて居ない何かの存在が常に、あちこちにあるのかな、と。

まだまだ日常のわけのわからなさに追いつくには、音楽の技術に関していろいろ足りていないです。それは自分でわかっていて、課題です。
最近、アニエスヴァルダの「幸福」という映画を観て、人生って生命保険とか、給料とか家庭とか、一見安定したものがそばにあったとしても、実は本当の意味でなんの保障もないものだと気付かされました。その保障のなさと音楽の発生する理由は、すごく関係があると思います。

保障の上に成り立つ芸術があるとしたら、凡庸で退屈だろうなと。

保障するには、保障内容を取り決めなくてはならないですよね。でも、小林さんが語られていたように、人生はわけがわからないもののはずで、本来、保障しようがない。おそらく、「保障しましょう」という態度や唆(そそのか)しは、わからなさを無視しているか、わかるところだけを簡略化している。なんというか……退屈ですし、人生や人生を過ごす人たちへの侮辱のようにも感じます。
大切な人や自分がいつ死ぬかわからない、理性をいつまで保てるかも本当は、わからない。だから今を瞬間的に凍結したくて、発生するのではないかなと。最近は、芸術の中のそんな一面が、色濃く、みえてきました。

映像や音楽は記憶に繋がり、あるとき私を根本から救ってくれることがあります。

最近は、高村光太郎の「智恵子抄」にうたれて、智恵子が狂ったことより、狂うくらい真正面からものごとを捉え、傷ついていったその真っ直ぐさに惹かれました。

生き方は、作品に出てしまうのだろう。そう考えたら、わたしはかなりいろいろなことを誤魔化して生きてしまっている。その誤魔化しは、演奏にどのように出てしまっているのか、と興味が出ました。

光太郎の文章には、わたしの日常に食い込んでくるほど、引き込まれました。わたしの人生はまだ隙間風が吹くほどスカスカだと、気づかされます。

誤魔化しに気づいて、誤魔化しを消すように生きて、弾こうとするのか。そのとき、どんな演奏になるのか。そうではなくて、気づいた誤魔化しを消去せず、そのままをピアノに載せようとするのか。小林さんが、どちらを表現されるのか気になります。でも、もしも前者で、それが果たされてしまったとしたら……不安です。

音楽が瞬間で、人生はとりとめがなくわからないものであるならば、それを接続する小林さんの存在は、一体なんなのだろうと。たとえば、蝋燭の芯は火の降りに沿って縮み、避雷針にしても稲妻を浴び続けたら、いずれは燃え尽きる。やはり友人としては、火や、雷であってくれないかなあと。あるいは鋼鉄のように。

ピアノをやめる、その日まで

そういえば小林さん、ピアノを始めたのはいつですか?

4歳には弾いてました。

その頃から上手だったんでしょうね。

分かりません(笑)指はまあまあ動きました。

楽譜に従って指を動かせば、自然にそうなる感じですか?

子供の頃のほうが指は回りました。今よりもずっと。

まさか!

ほんとです。

まさか……

それでも大学受験の時、先生には「タッチが全然なってない」と指導されました。「手はふっくらしてるけど、それは全部脂肪だから」とか、「自分への甘えよ」と言われました。厳しかったです。

すべて脂肪……刺さる言葉ですね。

日本の大学で習っていた先生は、女性の先生で厳しく見てくださる先生で、少しサボると、すぐに見抜かれました。入試前の時期、本来1時間のレッスンなのに、あるときは、まじめに練習していないことがバレたからか、3時間ひたすら弾くことになったり。

でも、いつもものすごく真摯にサポートしてくれました。とにかくタッチと音色を一から教えてくださり、これが将来本当に大事になるからと仕込まれました。今思えば本当に大切なことばかり。ご自身もドイツに留学されていて、留学をすすめてくれたのも先生でした。

イギリスで師事された先生も厳しい方でしたか?

イギリスで教わったのは男性の先生で、ご自身が昔バレエをされていて、ピアノも踊るようなリズムで演奏されました。

ここでまたタッチを仕込まれたんです。日本の先生とはまた違うタッチで、「とにかく自分が快楽を感じるようなピアノを弾くことが大切だ」と、その技術を教えてくれて。「本音を隠さず、すべてを音楽に出し、それに説得力をもたせることが大事だ」とも言われました。

留学中に先生と出会ったこともあって、改めて音楽ジャンルにはこだわらず、自分の好きな音楽を常に求め、自分の聴きたい音楽のツボを常に探すことをやらなきゃなと思うに至り、こういう気持ちはいまも続いてます。

小林さんが「努力したものの歯が立たずに絶望した」と振り返る、現代音楽の楽譜。

未来に受け継ぐピアノ音楽の実験」というピアノの特殊奏法を学ぶワークショップに第2期より参加してます。毎回まったく新しいことを学べて、大変刺激的で面白いです。毎日が楽しくなりました。井上先生はもともと演奏が芯に刺さるようで、凄く尊敬しているピアニストだったので、間近で教われるなんて、そんな幸運もなかなかないです。

探求が続きますね。そういえば、留学から戻られてピアノが弾けなかったのに、数年後、演奏を再開できたのは、なぜだったんですか?

ひと言では言えなくて、未だによくわかってません。当時の記憶も混沌としていてあまりないんです。今では想像できないくらい超荒んでました。

30歳の手前で絶対死んでやろうと思ってましたし、荒れに荒れて夢みながらも泣いていましたし、自暴自棄で軽犯罪に走っていた。台所で急に叫び始めて親に薬をすすめられた。そんな毎日でした(笑)

いや……微笑んでらっしゃいますけど……!

ただ、群馬から東京に引越し、表現活動をしている知り合いが増えたり、「弾いたらいいんじゃない」と気軽に言ってくれる人がいつのまにか増えたり。励まされました。

群馬には大切な友人がいますが、人と会う機会そのものが少なかったんです。何気ない会話とか、お茶するとか、お酒を飲むとかって、実はものすごく大事だなと実感してます。

あと、最近は尊敬する演奏家とかで、「やったらいいよ!」と言ってくれる人に会えることがたまにあり、励まされてます。

最近、ピアノをやめるタイミングを決めました。

突然! やめる? なぜ?! いつですか!

内緒なんです(笑)

そうですか、そうですよね……小林さんがピアノをやめるとは……

苦しさのあまり、やめる時期を決めるしかなくて。決めたら決めたで、ピアノを弾くとか、演奏について考えるとか、えんえん続くわけじゃないって思って、めちゃ楽しくなりました。

小林さんがピアノを弾くが見られなくなったら、それこそ喪失感が……。でも、やめると決めたことで苦しみから開放されたり、演奏が楽しくなったりしたんですね。

LOSTでいうと、不在が日常なんじゃないかなと思います。無いとか、居ないというのが当たり前だから、わざわざLOSTについて考えることが、あまりないのかもしれないです。

最近、またピアノをやめることに関しては考えが変わりました。一生やめないかもしれないです。その時が来ないとわかりません。私はなぜか気がころころよく変わるようです。還暦を過ぎたあたりの演奏家のピアノの音に心うたれることが、最近よくあり、ピアノは経験がものをいう楽器だなと感じ始めました。

今はまだ未熟で、未熟を楽しんでますが、もっといい音があるはずだと何十年かけて模索して、まだいろんなものに出合っていきたいと思ってます。

公演予定

「DANCE WITH A GHOST」
日時:延期になりました。スケジュールが決まりましたら、お知らせいたします。

 

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